第52回 落語家 柳家 小里ん さん

小里ん師匠の醸し出す空気というか、たたずまいには、‘浅草っぽさ’を感じます。私が子どもの頃は、近所にそういうおじさん、おばさんがいたものですが、その年代の人たちはすでに80代を超えています。べらんめい口調とか、威勢の良さとか、そういうのではない。言葉で表現するのは難しいですが、銀座や日本橋とは違う、浅草っぽさ。それは‘格好つけない格好良さ’かなぁとも思います。
四代目 富田里枝

 

01[1]

柳家 小里ん(やなぎや こりん)

東京・浅草出身。昭和44年、五代目柳家小さんに入門。前座名「小多け」。昭和49年、二ツ目昇進「小里ん」と改名。昭和58年、真打昇進。受賞歴は国立演芸大賞、浅草演芸大賞新人賞、芸術祭奨励賞。出囃子は「春雨」。

 

 

 

浅草ってね、伝統芸能を育てる町じゃないんだよね。

 

四代目 富田里枝: 師匠のお住まいは浅草の寿町で、煙管・パイプメーカーの柘さんとご近所なんですよね。柘恭一郎さんには昨年、このインタビューに出ていただいたのですが、寿町界隈は職人が多い町だったとおっしゃっていました。

柳家小里ん: うん、職人とかヤクザが多かったね、いわゆる博打うち。

02[1]

 

四代目 富田里枝: 博打うちって、賭場を開いてる人たちですか?

柳家小里ん: そうそう、今みたいに暴力団が恐喝するとかそういうのじゃなくて、渡世人。賭場に来る堅気のお客さんから寺銭を稼いでるのが商売なんだから、悪さをするわけではないんだよね。

四代目 富田里枝: でも師匠が子どもの頃は高度成長期で、サラリーマンが増えてきた時代ですよね。

柳家小里ん: うん。でも小学校の同級生は、ほとんど商売屋の子どもだったな。酒屋とか洗い張り屋、看板屋…恭ちゃんちはパイプ屋さんだし。駄菓子を作ってるうちもあった。やっぱりモノを作ってる人は多かったな。

四代目 富田里枝: うちの店のあたりはいわゆる観光地だから、ちょっと違うんですよね。師匠は昭和23年生まれということですが、その頃の浅草ってやっぱり賑やかだったんですか?

柳家小里ん: 映画全盛期だからね。浅草の六区は全部、映画館だったんだから。夕ご飯のあと、親に連れられて2本立ての映画をよく観に行ったな。夜は割引になるんだ。

四代目 富田里枝: 映画がはねて帰る途中のお客さん相手に商売したから、うちの店も10時過ぎまで開いてたって、父が言ってました。浅草演芸ホールもその頃からあったんですか?

柳家小里ん: いや、演芸ホールはね、僕が中学か高校の頃にできたんだよ。戦前はあったんでしょうけど。戦後、浅草で最初の寄席は、新宿末廣亭の出店があったんだ。今は国際通りの三平ストアってスーパーがある場所。それがなくなってしばらく浅草に落語が主体の寄席はなかった。デンスケやってた松竹演芸場はあったけどね。

四代目 富田里枝: えーっ!それは意外ですねぇ。知りませんでした。

柳家小里ん: 浅草ってね、伝統芸能を育てる町じゃないんだよね。歌舞伎というよりは、レビューとかエノケンとか。エログロナンセンスって言われた、そういうような傾向の町なんだ。どっちかっていうと、新しいことをやる体質なんだよ。

四代目 富田里枝: 言われてみると、そうですねぇ。

柳家小里ん: あんまり粋じゃないんだよ。お上りさん相手の門前町だからさ、いかがわしいようなもののほうが、流行るわけだよな。

四代目 富田里枝: なるほどねぇ。

柳家小里ん: ちょっとうるさいような通人よりか、大衆を相手にしている雰囲気のところだからさ。映画や見世物、ジャズ、ボードビリアンだとか、新しい時代のエンタテインメントが合ってるんだろうな。

四代目 富田里枝: 師匠はそんな浅草で生まれ育って、どうして落語家になろうと思ったのですか?

04[1]

 

柳家小里ん: うちの親が落語好きで、小さい頃から寄席に連れてってもらえたから。生の落語を聴き始めたのは同じ年代の他の人より早かったんじゃないかな。

四代目 富田里枝: 寄席っていうと、上野ですか?

柳家小里ん: 僕は人形町の末廣が多かったね。末廣って、畳敷きの寄席があったんだ。昭和46年になくなったけど。多いときは東京に寄席は百何十軒あったわけだからさ。

四代目 富田里枝: そんなにたくさんあったんですか!?

柳家小里ん: ってゆうのはね、電車のない頃だから、今の感覚より行動範囲がずっと狭いんだよ。徒歩で行ける場所に寄席が1軒くらいあっても、成立してたんだよね。花柳界だってそうなんだよ。白山に花柳界があったっていうと、なんでそんな不便な所にって思うだろうけど、その頃はみんな歩いてたから不便もなにもない。歩ける範囲に盛り場はあるわけだよ。

四代目 富田里枝: 電車のない時代にあっち行ったりこっち行ったり、出演者は大変ですね。

柳家小里ん: それは大変だよ。四代目小さん師匠が書いてるけど、噺家の修業なんて電車ができてからは本物じゃないよって。師匠が人力車に乗って、弟子が師匠の羽織を担いで駆け出していたんだから。

四代目 富田里枝: へぇ~っ!

柳家小里ん: 寄席には端席と本席っていうのがあって、端席っていうのは場末の寄席なんだよね。芸人の数は今より少ないから、半分は天狗連がやってるような寄席を端席っていったの。天狗連っていうのは素人の芸人のこと。

四代目 富田里枝: 素人が寄席に出られたなんて、びっくり。

柳家小里ん: テレビののど自慢みたいなもんだな。

四代目 富田里枝: 天狗連からプロになった人はいるんですか?

 

07[1]
柳家小里ん: いたよ。子飼いから修業した人から「素人上がり」って馬鹿にされたんだ。逆にいうとスカウトされるんだから実力があるんだよね。

四代目 富田里枝: 大学の相撲部からスカウトされて相撲部屋に入るみたいな感じですかね。

柳家小里ん: そうそう。芸って、形ができてないころのほうが素直だよね。 芸能なんてのは、極端にいえばさ、はぐれもんの集まりだ。士農工商の時代、武士の次は、食べ物を作ったり捕ったりする農業漁業でしょう。次に着るものやなんかを作る仕事。で、次が商う仕事。それがある意味いちばん正しい順番なんだよ。芸人なんて入ってないんだからさ。

四代目 富田里枝: なるほど。

柳家小里ん: みんながお百姓してるときにさ、やたら歌が上手いやつがいて、「おまえはみんなで食わしてやるから、祭りのときは唄えよ」っていうようなのが始まりなんじゃないかな。

四代目 富田里枝: おもしろい!

柳家小里ん: 伝統芸能っていうのはさ、文化としての水準は高くなっても、最初に持ってるエネルギーはなくなっちゃうんだよね。 でも、なくなることは悪いことではない。よくないのは伝統芸能と 新しい芸能と一緒にすることだよ。せっかっく洗練されて、形式として出来上がってるものを、なんでわざわざ壊すんだよ。だったら他のことやりゃあいいじゃないって、俺なんか思っちゃうわけ。

四代目 富田里枝: そうですね。

柳家小里ん: 伝統を守ってこそ意味があるんだよ。なくなっていいもんなら、自然になくなると思うんだよね。変えてまで残す必要がどこにあるんだよって思っちゃう。

四代目 富田里枝: 落語も、古典と新作がありますが。

柳家小里ん: どっちがいいも悪いも、ないんだよ。比べるのがおかしい。古典の粗探しするようなのはさ、大きなお世話だよ。

 

 

俺の人生は、死ぬときに落語家でいられりゃいいやと思ったの。

 

 

四代目 富田里枝: あははは。ところで師匠は、高校生の頃、体操部で活躍されたそうですが。

 

柳家小里ん: インターハイで優勝したんだ。1種目だけどね。

 

四代目 富田里枝: え~っすごい! 運動神経がよかったんですね。落語家ってずっと座ってしゃべってる、動かない商売ですよね。運動とはまったく逆です(笑)

06[1]
柳家小里ん: ふつうの、堅気の仕事にあこがれたことが一度もないんだよ。子どもの頃は、サーカスに行きたかったんだ。空中ブランコ乗りになりたかったの。

四代目 富田里枝: そうなんですか!

柳家小里ん: 小学生の頃の作文に、尊敬する人は小林一茶って書いたことがあってさ。

四代目 富田里枝: 渋い小学生ですね(笑)。

柳家小里ん: 親父に張り倒されたよ。おまえはなんでナポレオンとか書かないんだって。

四代目 富田里枝: じゃあ、落語家になるって言ったらご両親は?

柳家小里ん: そりゃびっくりしたよ。落語が好きなのは構わないけど、そういう人たちのご贔屓、つまり偉い人になって芸人のスポンサーになるのが、男の仕事だって思ってたんだよ、親としては。当人が落語家になっちゃだめなんだよ。

四代目 富田里枝: まさか自分の息子が高座に上がっちゃうとはねぇ。

柳家小里ん: 本当は中学卒業してすぐ入門したかったの。高校は退学になってやろうと思って行ったから、高校1年から3年まで、教科書買ったことないもん。

四代目 富田里枝: あははは!

柳家小里ん: 入った都立高校が、けっこう偏差値の高い学校だったんだよ。まわりは国立志望のやつばっかりでさ。そん中で、教科書も買ってないから成績はひどいわけだよ。で、先生に呼ばれて、こんなんじゃ大学行けないぞって言われて、行きたかねぇもんって。

四代目 富田里枝: 先生は驚きますよね。

05[1]

 

柳家小里ん: で、どうすんだって言うから、落語家になりてぇんだって。落語と歌舞伎の話すると、どの先生も俺に勝てねぇわけだよ。で、先生には、おまえは他の生徒の邪魔にならないように生きてくれって。

四代目 富田里枝: あははは!

柳家小里ん: 進学校って、受験しない人には指導のしようがないんだよね。学校抜け出して寄席へ行ったり、芝居も好きだったからよく観に行ってたし。そしたら高校生活が楽しくなって、これはやめることねぇなって。

四代目 富田里枝: 芝居の道に行こうとは思わなかった?

柳家小里ん: 噺家よりほかは考えたことなかったね。うちは4人きょうだいで、男は俺ひとりなんだよ。だから噺家には、両親があの世に行ってからなるしかねぇなって。俺の人生は、死ぬときに落語家でいられりゃいいやと思ったの。

四代目 富田里枝: で、高校卒業後すぐに入門したんですか?

柳家小里ん: いや、卒業後3年くらいは家業を手伝ってた。その頃、まだ二ツ目でさん治って名乗ってた柳家小三治さんと知り合って、小さんの弟子になりたいって言ったら、今はやたらと弟子入りが増えて、すぐには前座にもなれない状態だから、落語だけおせぇてやるからうちに通ってなよって。

四代目 富田里枝: あーそうだったんですか!

柳家小里ん: 2年位してから、小さん師匠の内弟子が辞めちゃったんで、内弟子でいいんならっていうことで。

四代目 富田里枝: 内弟子っていうのは?

柳家小里ん: 住み込みの弟子。ふつうは地方から出てきた人が住み込むんで、東京出の内弟子って少ないんだよね。師匠としてはどっちでもよかったんだろうけど、やっぱりおかみさんが内弟子がいたほうが楽だったのかもね。

四代目 富田里枝: 内弟子って大変そうですねぇ。

柳家小里ん: いやいや、噺家の修業なんて、人に言えないくらい楽なもんだよ。掃除してメシ作ったり、主婦と同じ。辛かったのは、寄席に出られないことだね。つまり入門者が増えちゃってるから、落語協会に入れない時期だったんだ。

四代目 富田里枝: 前座になるのって、師匠の裁量なのかと思ってました。

柳家小里ん: 東京の寄席は、落語協会と落語芸術協会が交替で出演してるわけ。だから協会員でないと、前座にも出られない。小さんの弟子になっても、協会員にならないと寄席では働けないんだよ。俺なんかの時代がいちばんひどくて、協会員になるまで3年かかったんだ。

四代目 富田里枝: へぇ~っ!

柳家小里ん: なにが辛いって、なんにもすることないんだよ。おかみさんと、うちン中でテレビ見ているだけの3年間だったんだから。通いじゃないから、出かけられないし。20歳から23歳までのいちばんやりたいときに、よく我慢できたと思う。

四代目 富田里枝: ほんとですねぇ。今も落語家さんはずいぶん多いですが、出る場所が増えたんでしょうか。

柳家小里ん: 寄席は減ってるけど、仕事は増えてる。「東京かわら版」って演芸専門誌を見ると毎日いろんなところでやってるよ。でもね、今の若手は僕らと育ち方が違うから、余興ができないんだよな。

四代目 富田里枝: 余興?

柳家小里ん: 僕らの頃は落語一本でよばれる仕事なんかほとんどなかったから、司会だとか、なんかおもしろいことやれだとか、余興ができなきゃだめだったの。飲み食いしてる場所で落語なんか絶対聞かないからさ、いろんなこと覚えたんだよ。 通し術とか踊りとか、獅子舞とかね。僕なんかはよく、褌ひとつでお相撲さんの形態模写なんかやったよ。

四代目 富田里枝: 昭和40年くらいですか?

柳家小里ん: 僕は入門が昭和44年なんだけど、42~43年頃がいちばん多かったのかも。

四代目 富田里枝: 「笑点」が始まったのが昭和44年ですね。

柳家小里ん: その前にも番組はあったけどね。ただテレビってのはCMが入るから、長い落語はできないんだよな。だからその頃テレビで売れてる落語家って、落語を演らなくてタレント業で有名な人が多かったね。

四代目 富田里枝: そうでしたねぇ。

 

 

もっと道楽商売であって欲しいんだよ、噺家は。

 

四代目 富田里枝: 師匠は生まれてからずっと浅草住まいですか?

柳家小里ん: いや、所帯を持ってすぐは麻布十番に1年くらいいたよ。その前は目白の師匠のうちに6年いて。きょうだいの中で男一人だから、戻ってこざる得なかったんだけど、浅草以外に住みたいと思ったことはないね。

四代目 富田里枝: そうなんですか。

03[1]

 

柳家小里ん: 無精なんだよね。わざわざ新しいところでなんかするってのが好きじゃない。早くに落語に出会ったからかな。生まれ変わっても落語家になりたいもん。

四代目 富田里枝: えぇ~っ!

柳家小里ん: やり残したことがずいぶんあって死んでいくんだろうなって。そうすっと落語なんて、きりがないんだよね。

四代目 富田里枝: そういうもんですか。

柳家小里ん: 自分の頭の中の理想の芸なんて、誰もできないところにあるわけだから。そんなところへ行けるわけないのにさ。だからおもしろいってのもあるけど、だから辛いってのもあるよね。

四代目 富田里枝: 理想の芸って、いつ頃から頭のなかにあるんですか?だんだん変わってくるんですか?

柳家小里ん: いやいや、子どもの頃に聴いたのが、どんどん勝手に大きくなってるだけ。説明できないくらいに膨らんじゃってるんだよ、自分のなかで。

四代目 富田里枝: なるほど。

柳家小里ん: 俺たちの芸は、好き嫌いのもんだから。絶対がないんだよ。九代目團十郎とか五代目菊五郎を見てた人たちは、見てない世代から‘団菊じじい’って嫌がられたんだよ。それの繰り返しなんじゃない。 ただ何度も言うけど、古典と新しい芸能をいっしょにしないで欲しいんだよね。古典の中にある芸のあり方を、いいとか悪いとか言わないで欲しい。

四代目 富田里枝: 古典はほっといて欲しいと(笑)。

柳家小里ん: 新しい芸能を嫌いなわけじゃないの。噺家になる前からアングラとか小劇場はいっぱい観たよ。唐十郎の状況劇場が好きでさ。恭ちゃんともよく行った。唐十郎が新宿のテント小屋で機動隊に囲まれてるとき、いっしょにいたんだから。二十歳の頃。

四代目 富田里枝: わぁー羨ましい!私も20代の頃、唐組になってからの芝居はよく観てました。状況劇場の全盛期に観たかったなぁ。

柳家小里ん: 状況劇場は、これこそ歌舞伎だって思ったね。歌舞伎の精神を継いだ演劇だよ。あとは寺山修二、つかこうへいくらいかなぁ。

四代目 富田里枝: 今、注目している劇団とかありますか?

柳家小里ん: 扉座なんかは好きだよ。

四代目 富田里枝: へぇ~! 歌舞伎は今でもご覧になるんですか?

柳家小里ん: まぁそれなりに観てるけどさ。歌舞伎の御曹司たちは、なんだかんだ言われてもやっぱり、生まれたときからその環境にいるから、芸を学ぶっていうより自分の一部なんだよな。

08[1]

 

四代目 富田里枝: 師匠もそうですよね。浅草のごちゃごちゃした、多種多様でなんでもありの空気のなかで生まれ育っているから、東京の下町独特の雰囲気というか、そういうの、持っていらっしゃいますよね。

柳家小里ん: 学んだもんじゃないからさ。今の若い噺家は東京で生まれ育っても、江戸弁を実際聞いてないから、標準語を江戸弁に直さなきゃなんない。

四代目 富田里枝: そう、微妙な部分なんですけどね。

柳家小里ん: 俺たちは、噺家のたたずまいに憧れて、噺家になったんだよ。ひんしゅくを買うくらい、噺家らしくいたかったわけ。朝寝してメシくってから一合くらいの酒飲んで、仕事に出かけてさ、夜はご贔屓と芸者なんかあげて・・・なんて生活してぇなと思って、噺家になったんだよ。今の人はまじめになっちゃてるから。

四代目 富田里枝: まじめすぎるんだ(笑)。

柳家小里ん: もっと道楽商売であって欲しいんだよ、噺家は。でも、道楽商売を目指したら、そこで努力しなきゃ。

四代目 富田里枝: そうですね。

柳家小里ん: 一方で芸はお客さんが作っていくっていうのも事実。黒沢、溝口、小津なんて映画が、興行成績1位だったんだよ。ってことは、観る観客の水準がすごく高かったんだよ。

四代目 富田里枝: 今はどこにでも行けて、インターネットでなんでもわかる時代ですよね。でも観る側の水準が高いかっていうと…。

柳家小里ん: なんでもある時代は、なんでもよくなっちゃうんだね。映画以外に娯楽がなかった時代は、観る側が責任を持って映画が好きだったんじゃないかな。テレビの時代になってから責任感がなくなった。

四代目 富田里枝: あーそっか、テレビはお金払わないで見れますもんね。

柳家小里ん: テレビってBGMなんだよね。途中でやめてもいいし、腹も立たない。

四代目 富田里枝: 見てる側が無責任でいいのが、テレビなんですね。寄席をはじめ、生の舞台を観る人がもっと増えて欲しいです。今日は、どうもありがとうございました!

2013年11月7日 浅草にて

 

贅沢な時間でした。インタビューが終わってあらためて、ものすごく貴重な経験をしたことに気づきました。「芸能なんてのは、はぐれもんの集まり」「噺家なんて道楽商売」と言う師匠独特の‘照れ’。そして芸に対する真摯さ。一流とはこういう人だとあらためて感じたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関連記事

コメント

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。