【履物豆知識】下駄の歴史

下駄が歩んだ歴史とは?

仕事のための道具として

下駄の起源をたどると「仕事のための履物」として使われてきたことがわかっています。鼻緒を指で挟むことにより力が入って足元が安定するため、その機能を活かしてさまざまな「道具としての下駄」が作られてきました。
その代表例が「田下駄」です。

《田下駄》

田んぼに草や枯れ枝を肥料にするために踏み込んだり、平らにならしたりする農具の一つとして生まれたものです。
手縄を持って、つま先のほうから持ち上げて前に進みます。
指でしっかり挟むことによって、足の力が使えるわけです。

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《ネヅラ下駄》

底に竹製の針のついた「ネヅラ下駄」。
遠浅の海岸を歩いて、ヒラメやカレイを突き刺して獲ります。

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《足桶》

桶の形の「足桶」という下駄は野菜を洗ったり、和紙を作る楮(こうぞ)をさらすなど、水中での作業に用いました。
東京・大田区の浅草海苔の養殖で使われたもので、海の中で浮かないように石がつけてあります。
桶を持ち上げるわけでなく、ぐっと踏みしめるために鼻緒が付いています。

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《甑沓(こしきぐつ)》

熱伝導率が低いことから、下駄は熱い場所での作業に活躍することもあります。
お酒を造るときにお米を蒸す作業をするのに使う「コシキ沓(ぐつ)」。

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《床下駄》

「床下駄(トコゲタ)」も熱よけに履かれた下駄。
底裏を彫り取って安定をよくした厚板の下駄で、中国地方の、たたらという和鉄の生産現場で使われました。

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《茶切り下駄》

おもしろい形の「茶切り下駄」。とがらした樫の三枚歯でお茶の葉を踏んで細かく刻みます。

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木沓(きぐつ)と木履(ぼくり)

奈良時代には出土物から、木沓(きぐつ)と木履(ぼくり)の両方が履かれていたことがわかっています。
木沓は現在、神社での儀式で禰宜が履いているのを見ます。

(写真は浅草神社の現禰宜が使用されているもの)

江戸時代、下駄はファッションアイテムに

《足元を装うための履物へ》

江戸時代、町人文化が花開くと、おしゃれとしての履物という意識が芽生えてきます。
履物づくりの専門職人が登場したのもこの頃。
本来、下駄は雨降りの時に履くものでしたが、江戸半ば以降になると、雨の日以外でも履くようになります。

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《高さへの欲求》

ファッションへの意識が高まると、背を高く見せたいという欲求が生まれてきます。

花魁の道中下駄は、衣装や髪飾りが豪華になるにつれ、バランスをとるために高くなっていき、江戸末期には非常に高く、重さもある大きなものが登場します。

《形や装飾の多様化》

差歯下駄、ぽっくり下駄、中刳り下駄、中折れ下駄、漆塗り、表付きなども現れます。
鼻緒も麻や綿の芯を織物で巻いた華やかなものや、革製のものが使われるようになります。

《安価な下駄が庶民に浸透》

江戸や京、大阪など大都市には下駄屋が何軒もありましたが、下駄はまだまだ高価で、 農村部での日常の履物は、わらぞうりやわらじが主でした。

「裸足禁止令」が出された明治中期頃から、 広島の松永下駄など安価な雑木下駄が大量に作られるようになり、全国的に下駄が庶民の履物として浸透してゆきます。

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靴の時代へ

昭和30年代以降、日本人の日常の履物は下駄から靴へ変わってゆきます。  服装も和装の比率がどんどん減り、洋服が主流となります。着物や和装履物は日常のものから特別なものへ、普段づかいから高級品へ、その役割も変化しました。

しかし最近では和装を特別な服装としてだけでなく、ふだんのおしゃれの一つとして楽しむ人も増えつつあります。同時に下駄も和装だけでなく洋服に合わせて楽しむファッションアイテムとして見直されています。

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取材協力:日本はきもの博物館

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