第57回 駒崎浩代さん
駒崎さんとの出会いは、10数年前にたまたま辻屋本店で履物をお求めくださったのがご縁です。なんとなく波長が合うなーと感じていたのは、今回お話をうかがってみて、商家に生まれ育ったところや、女子校に通っていたことなど、共通点があるからかも、と思いました。実は先日はじめて一緒にお酒を飲んだのですが、話は尽きずどんどんお酒もすすみ、気が付くと何時間もしゃべっていたのでした。
今回は駒崎さんが講師として教鞭をとっている「日本デザイナー学院」の授業風景を見学後、お話をうかがいました。
駒崎浩代
千葉県野田市で生まれる。因習を大切にする材木商の父のもとで自由闊達な少女時代を過ごし、中学から東京で学び美大デザイン科卒業後、食品関係のパッケージ企画・制作会社に勤務しながら和装の仕立てを学ぶ。その後、大学院に進学。在学中に京都で友禅の技法を学ぶ。
大学院修了後、フリーのデザイナーとしてグラフィックをはじめ様々な分野のデザインを手がける。
テキスタイルや商品企画、店舗・旅館のアートワークやディレクションを手がけながら「KOMAHIRO WORD」のオリジナル作品を制作している。
駒崎浩代 公式ホームページ「KOMAHIRO WORLD」
http://www.komahiro.com/index.html
四代目 富田里枝:駒崎さんは千葉のお生まれなんでしたっけ。
駒崎浩代:はい、千葉の野田です。駒崎家は代々、野田と東京の木場で「武蔵屋」という屋号の材木商を営んでいました。江戸時代の終わり頃の創業で、父が七代目になります。
建築などに使う材木を扱っていた他に、岩手に銘木の山を持っていて、伐りだした材木を卸していたらしいです。
四代目 富田里枝:当時の建物は何でも木でできていたから今では想像できないくらい、材木の需要があったのでしょうね。
駒崎浩代:父は大学を出る頃終戦となり、一度逓信省に勤めた後25歳位で家業を継いでいたそうです。というのも祖父は心臓が弱かったようで、治療に専念するために早くに代替わりをし、お医者さんにすぐ見て頂けるよう都内の女子医大近くの若宮町に住み、往診をして頂いていたのです。確か私が小学校2年生位のとき、病気がだいぶ良くなって、野田に戻ってきました。
四代目 富田里枝:そうなんですか。
駒崎浩代:明治生れの祖母は武家の出身で、商人の家に嫁いだわけですが、武士出身のプライドがありお嫁さんというより、お嬢様・奥様という感じでした。身の回りの世話も朝ドラのあさちゃんのように手伝いさんがいましたし、お謡のお稽古事をしたりとのんびり過ごしていたようです。ですから母も手早やな人ではありませんでしたが、祖母からみれば何でもできる人に見えたようで、いつも祖母からほめられたと母が言っておりました。面白い話があり、何かの都合でお手伝いさんがしばらく不在しており、母が祖母の様子を見に行ってみると、履いた足袋が30足くらい…つまり1ヶ月分ですよね…バケツの水につけてあったそうです。母が祖母に伺うと昨日は雨だったし、一昨日はお稽古だったしと・・。お付きと一緒にお嫁入りしたそうですので、自分で足袋をすぐ洗うという習慣もなかったのでしょうね。
四代目 富田里枝:すごいお話ですねぇ! おじいさま、おばあさまとは一緒に住んでいらしたんですか?
駒崎浩代:いえ、父が祖父母の為に隠居所を建て、そこで暮らしていました。お祭りとか行事等で家に来る時には、おじいさま、おばあさまがいらっしゃるということで仕出し屋さんからお料理とったりして、番頭さんはじめ、みんなでお出迎えという感じでした。
四代目 富田里枝:はぁ~時代劇みたいですねー。
駒崎浩代:今思い返すとそうですよね。またお正月には仕事関係の旦那衆の顔合わせがあって、家族も参加して料理屋に集まるんです。私は毎年新しいおべべを着せてもらうのが楽しみでした。でも次女なのでおとなしく末席に座わるだけでしたけれど。ちなみに姉は父の隣の席でしたね。幼かったので私には半玉さんがお世話してくれたことを覚えています。
四代目 富田里枝:その頃から着物好きだったんですか?
駒崎浩代:物心つく幼い頃からですね。神社がすぐ家の近くにあり毎年七五三の参拝者が家の前を通るので、私も着物を着てひとりで七五三をやっていたようです。(笑)アルバムの写真を見るとどれが本当の七五三かわからないです。
四代目 富田里枝:あははは!
駒崎浩代:それに祖母のところには呉服屋さんが年2回来るのね。秋にはお正月用の反物、春には新柄の浴衣の反物を持って。家はお迎え盆に新調した浴衣を着てお迎え・送りをすると決まっていたから、お盆前にある夏祭りにはまだ新調した浴衣に袖を通させてはもらえなかったの。お祭りに去年の浴衣を着なきゃならないんて、つまらないなぁと思ったものです。
四代目 富田里枝:おばあさまと一緒に着物を選んだりしたんですか?
駒崎浩代:私のは母が選んでましたけど、でも呉服屋さんが来るとワクワクしてました。祖母は着物しか着なかったし、母も私が小学生くらいまでは普段着物で白い割烹着姿でしたので、着物は特別という感じではなかったですね。しかも両親の両方の親戚が呉服屋に嫁いでいましたので、親戚に呉服屋が多かったこともあるかもしれません。
四代目 富田里枝:駒崎さんご自身はいつ頃から自分で着るようになったのですか?
駒崎浩代:3歳から日本舞踊をやっていたので、週2回か3回は浴衣等を着てお稽古していましたし、中学上がる前には自然に自分で着ていたように思います。
日本舞踊を習ったのは、たぶん父が仕事関係でお座敷あげたりするから、踊りのお師匠さんになった元芸者さんに「お嬢さん習いに来ませんか?」とか頼まれたんだと思います。
家に帰ってきて元芸者さんのお師匠さんの真似をすぐするので、母は「この子は芸者になるんじゃないかしら」って思ったそうです。
四代目 富田里枝:うちの母も叔母たちも日本舞踊を習ってたのは、商売の家だったからなのかも。私も実は6つの時に藤間流のお稽古に通わされてたんですよ。それで駒崎さんは、芸者さんにならずに(笑)美術系に進んだのは何かきっかけがあったのですか?
駒崎浩代:姉が優等生でね、7つも違うのだけど私はなんでもお姉さんの真似をしてて。中学に進学して姉が入っていた書道部に私も入部しようと思ったら抽選で外れちゃったのね。それで仲良しの友人が絵画部に入るというんで付いてったら、先輩たちが美人揃いだったの!それに油絵のキャンバスとイーゼルなんてかっこいいじゃない。
四代目 富田里枝:ミーハーな!
駒崎浩代:ねぇ(笑)。その友人は小学校からずっと絵を習ってて、美大に進学したいんだって言ってたのね。私は美大がどんなものか知らなかったんだけど、勉強しなくてずっと絵を描いてるなんて、それはいいなぁって。
四代目 富田里枝:それで美大に?
駒崎浩代:叔父がたまたま美校(後の芸大)を出てたので、受験するなら早くから勉強した方がいいとアドバイスしてくれて、高校入ってすぐ予備校に通い始めたの。だから周りよりスタートが早かったのがよかったみたいです。
四代目 富田里枝:予備校通いは苦じゃなかったですか?
駒崎浩代:おもしろかったですよ!中学、高校は女子校で「ご機嫌よう」の世界でしたんで、私は100匹くらい猫かぶってましたから。実家の材木商は男衆ばかりでしょ。当時の美術系って何となくバンカラ的で、私の地に合っているというか。近いんですよ。もう、水を得た魚ですよ。
四代目 富田里枝:大学の専攻は油絵?
駒崎浩代:いえ、デザインです。卒業してパッケージ関係の仕事に就きました。菓子のパッケージが中心で、主に私は和菓子系や全国の銘菓等のパッケージを手がけていました。でもある時、菓子のパッケージは紙の素材系なので、お客様の手に渡ってすぐに破いて捨てられちゃうものがほとんどだと気づいて、なんとなく空しさを感じたのです。それでもっと地道なモノ作りをしたなぁ、以前から自分の着たい着物を染めたいと思っていたから、会社を辞めて染めの職人さんに弟子入りしようかなと。でも先輩や学校の先生に相談したら待ったがかかり、もっと広い視点でいろいろ見つめた方が良いと。 その一つとして「一旦、大学院に進学して広く自分を見つめたらよいのでは?とのアドバイスを頂いたのです。
四代目 富田里枝:大学院では何を研究されたのですか?
駒崎浩代:私自身は工芸科に進学したいと思ったのですが、大学でデザイン科専攻だったので、異なる科に入るのは難しく、ならばデザイン科で学べることは・・と。
江戸文化が好きでしたし様々な文様・模様に興味があったので、日本の歴史の流れの中で変化して来た文様・模様を新しいデザインとして捉え直し、現代の生活用品の装飾の一つとして融和するような文様への創作をテーマとしました。
四代目 富田里枝:なるほど。
駒崎浩代:入学して器や着物の文様を研究するにあたって、先生から「何でも一度実際に作ってみなさい」って勧められて、こりゃシメたものだ!ならば染色をやってみよう!と。そこで染色ってどんな技法があるのかを調べ、まずいろいろな技法をやってみたところ、元々グラフィック出身だから自分で自由に描ける技法が一番合っていることに気がつき、最終的に行きついたのが手描き友禅だったのです。
それで伝手をたどって京都の職人さんを紹介していただき、1年間休学して京都で友禅技法の勉強をしました。京都の友禅は糸目糊、色差し、地染めなどすべて分業なので、それぞれの職人さんのところに行って教わるんです。
四代目 富田里枝:ただでさえ職人さんって難しそうなのに、しかも京都で東京から来ましたって教えてもらうの、大変そう。
駒崎浩代:その頃は大正生まれの職人さんがまだまだたくさんいらしたし、余所の人間には閉鎖的な部分もあったと思います。今はだいぶ変わりましたけどね。
四代目 富田里枝:でも小さい頃から着物は身近だったし、材木商とはいえ職人の世界も知ってるから、まだよかったかもしれませんね。
駒崎浩代:そうですねぇ、ここで話しかけちゃいけないとか、間合いとか、そういう間を読むのは大事ですからね。
四代目 富田里枝:京都から戻られてからは、染色作家として作品をつくったりされたのですか?
駒崎浩代:いえ、作品というよりは自分の着物や帯を染めてました。湯島に、大ファンだった池波正太郎先生の行きつけの居酒屋があって、なんとか先生に目にとめてもらおうと思って、毎回違う帯を染めて通ったりして。若いってバカですよね~(笑)。
四代目 富田里枝:えーっ健気~!
駒崎浩代:工芸科出身の方は、作品となるとパネルやタペストリーにして公募展などに出品していましたけれど、私は着物が好きで染色をしたかっただけだから。でも染色作品で着物となると伝統工芸系の分野に含まれてしまうのです。私は染めの技術より自分が着てみたい柄を出すために、例えば型染と友禅染を合体させるとか、当時の工芸作家からみれば邪道に思われる、そんな感じを受けたので自分の作品として出す場所はないなあと。
四代目 富田里枝:それでデザインを本業にして、染色は自分の好きなものを作るというスタイルなのですね。学校で教えているのはこちらの「日本デザイナー学院」と他にも?
駒崎浩代:はい「女子美術大学」でも講師をしています。また美術系ではありませんが、「辻調理専門学校の製菓」で教えているの。ディスプレーや色の使い方とか。マジパンを混ぜて12色素を作ったりして。それから最近ではワンちゃんのトリマーの専門学校からも依頼がきて教えています。
四代目 富田里枝:おもしろいですね!デザインってすべての分野において必要なんですね。
駒崎浩代:固定観念にとらわれず、生活に密着した視点でデザインを考えるのが大切だと思います。
四代目 富田里枝:いろんなことやってるのが駒崎さんらしいです。最近は旅館やホテルのアートディレクションも手掛けていらっしゃるということですが。
駒崎浩代:サインデザインの会社の社長さんが、たまたま私がいつも着物だし和ものが詳しいということで、草津の旅館の仕事をやってみない?って声を掛けてくれたのです。
四代目 富田里枝:その後、京都や伊勢でも続いているんですね。
駒崎浩代:はい。京都は「嵐山・花伝抄」、伊勢は「伊久」という旅館です。客室だけじゃなくて廊下、フロントなど全般的にやらせていただきました。建築家がチームみんなでやりましょうっていう方針の人だったので、いろいろアイディアも取り入れてくださって。
四代目 富田里枝:ところで12月22日〜24日に青山のスパイラルで作品展示されるそうですね。
駒崎浩代:「ジ・アートフェア+プリュス-ウルトラ2015」というスパイラルの企画で、ジャンルを問わずギャラリー(ギャラリスト)が推薦するアーティストの提案と、アートマーケットの次代を担う40 歳以下の若手ディレクターを育てるという主旨のようです。
今回は会期が3期に分かれ、私は2期目の12月22日(火)~24日(木)で「Hideharu Fukasaku Gallery Roppongi」のギャラリーのディレクションで出品させていただきます。
四代目 富田里枝:下駄に絵を描いた作品。うちも鼻緒の挿げでご協力させていただきました!
駒崎浩代:助かりました!20代〜30代の頃に下駄の作品展を数回行っていましたが、そもそもは欠けてしまった下駄がもったいないのでパテで直したついでに、院で学んだ塗技法で絵を描いたのがきっかけなんです。
そんなことをしている頃、実家の店を移転するので父が蔵や林場(材木置き場)を整理していたら未使用の下駄が出てきて、ちょうど処分するというから、これまたもったいないな〜って思って私がもらい受けて作品にしました。それが履ける作品、KOMAHIRO下駄のスタートだったのです。
四代目 富田里枝:でもなぜ材木屋なのに下駄があったのですか?
駒崎浩代:戦後間もない頃、物資が少ないので銘木の山がある岩手の近くから、南部下駄を仕入れて店先で下駄も売っていたそうなんです。残った下駄はだいぶ差し上げてしまったようですが、特殊な下駄は対象の方が限られるので、残っていたのでしょう。
父は私が下駄を貰い受けた翌年に亡くなり、KOMAHIRO下駄の作品は見ていないのです。
四代目 富田里枝:それは残念でしたねぇ。
駒崎浩代:今回KOMAHIRO下駄の作品を約15年ぶりに手がけようと思ったのは、今年の5月にやっと立ち上げたHPをギャラリストが見てくださり、ぜひ下駄の作品でとリクエストしてくださったからなんです。そこで、多くの方に見て頂ける場所ですし、大切に保管していた残り少ない下駄に手がけることにしました。
制作しながら、きっとおそらく今後このような多様な下駄を手に入れることは難しくなることだろうと、また父がいたらどんな風に思うのだろうなあ?なんていろいろなこと、想いを巡らせました。
四代目 富田里枝:ほんとうに、喜んだでしょうね!
駒崎浩代:今回の作品では、初めて鼻緒を挿げたかたちのものも5点出品することにしました。KOMAHIRO下駄の作品展を始めた頃は、下駄の台座をキャンパスに見立てて。また、お好みに合わせて鼻緒を挿げたいと思いましたので、挿げなかったんです。
今回は履ける作品+遊び心をより待たせたいと、手作り鼻緒を5点挿げることにしてみました。
できるなら、全てすげてみたいという気持ちもありましたが、何しろ表台座が完成してみないことには、どんなものを合わせたらよいか決まりませんし。
でもこの点が下駄や草履のすごく面白いと思うところなんです。つまり台座が同じでも挿げる鼻緒によって、かなりのイメージが変わるのですよね。
四代目 富田里枝:そのとおりです。
駒崎浩代:今回、応募時に制作しDMに使用して下さった蛸(タコ)柄の高下駄、藍染めの藍錆と縹色を重ねた鼻緒にしたら粋な感じになるだろうと思ったのですが、一度やってみたかった遊び精神たっぷりの鼻緒でやっちゃいました。
四代目 富田里枝:あれ、すごいですよね~タコ足の鼻緒!うちの職人が苦労して挿げてました(笑)。
駒崎浩代:また、台座が出来上がってみたら、唐桟の布地の鼻緒を合わせたくなった夫婦下駄がありまして。これには新潟の織元から様々な唐桟生地を分けて頂き、選びに選んで8種類の唐桟を使用して鼻緒にすることにしました。こちらは辻屋さんにお願い中。よろしくお願いいたしますね。お願いしたのが遅く、会期には間に合いませんが楽しみです。
四代目 富田里枝:鼻緒は前坪や鼻緒裏の色合わせでもイメージが変わるのでおもしろいところです。
駒崎浩代:あと1点まだ決め兼ねられずにいる作品があって、どんな布地柄の鼻緒にしたらよいか、会期が終わってからゆっくり悩もうと思います。辻屋さんならどんなものをお薦めするかしら?相談に乗ってくださいね。
四代目 富田里枝:もちろんです!
駒崎浩代:辻屋さんの履物は、鼻緒と台座の組み合わせが素敵で、品の良さと粋を感じさせるものが多いですよね。江戸風のセンスの良さを感じます。それに何より履きやすいんですから。
そうそう、辻屋さんの履物は、私と一緒にあちこち海外行っているんですよ〜。特に海外へは鼻緒がしっかりしていないと怖くて履いて行けませんからね。
四代目 富田里枝:嬉しいなぁ~!
駒崎浩代:今回のKOMAHIROの下駄も辻屋さんに挿げて頂くことができ、とても嬉しく思っています。実のところ、手作りの笑っちゃう鼻緒を持参するものだから・・どう思われるかな〜とかなり不安とドキドキでした。でも心よく受けて頂き、ほんと感謝です。ありがとうございます。
四代目 富田里枝:生まれ変わった下駄たちも、喜んでいることでしょう(笑)。青山スパイラルの展示、楽しみにしていますね!
ジ・アートフェア+プリュス-ウルトラ2015
http://systemultra.com/2015/
term1 12/18–12/20
term2 12/22–12/24
term3 12/26–12/28
★駒崎浩代さんの作品は term2 12/22–12/24 に展示されます。
コメント
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。