第26回 「隣花苑」女将 西郷槙子さん

私が4年間暮らした横浜の家の近くに、「三渓園」という広大な日本庭園があります。
17.5万平方メートルに及ぶ園内には、室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都や全国各地の古建築が移築されており、春は梅や桜、夏は菖蒲や蓮、秋には紅葉と季節ごとに楽しめる、市民の憩いの場となっています。
この三渓園を作ったのが、横浜にとって歴史的人物であり、実業と文化の両分野で大きな足跡を残した“原三渓”です。

原三渓は、先代の残した事業である絹貿易をさらに拡大、富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、富を築く一方、美術収集家としても知られています。さらに今村紫紅、小林古径、前田青邨、下村観山など新進芸術家を支援しました。
関東大震災後は横浜市復興会の会長を務め、私財を投じて震災後の復興支援のため尽くしたといいます。
さて今回うかがった「隣花苑」は、「三渓園」のとなりにひっそりとたたずむ重厚な田舎家。三渓翁ゆかりの美術品や庭に咲く花々を楽しみながら、料理をゆったりと味わえるお店です。
女将の西郷槙子さんは、原三渓の曾孫にあたる方で、食に対するこだわりのあった三渓翁の心を受け継いだ料理でもてなしてくださいます。

西郷槙子
小学校から高校まで横浜雙葉学園。慶應義塾大学卒業後、イギリスの化粧
画に携わる。31歳で「隣花苑」に入り、現在は二代目女将として活躍。

富田里枝:昨日、大雪が降ったのでお庭はどうなっているかなと楽しみにして来ました。雪に椿の赤が映えてとってもきれいですね。こちらは四季折々、お花が楽しめるのですよね。

西郷槙子:ええ。「隣花苑」という名前は三渓が好んだ「隣花不妨賞」(隣花、賞するを妨げず)という漢詩に由来しています。「花というのは垣根を高くせずみんなで愛でよう」といった意味で、ここは一年を通じて花を楽しみながら食事ができる場所なんです。

富田里枝:原三渓翁は関東大震災後、横浜の復興支援のために私財を投じたそうですし、自邸の庭園を一般に開放したりと、とても公共的な方だったのですね。

西郷槙子:そういうところ、おおらかな人だったようです。

富田里枝:こちらの建物は約600年前、足利時代につくられたものを、三渓翁が昭和5年に移築されたそうですが、女将さんはここがご自宅だったとか。

西郷槙子:はい。元々は祖母の家で、私は高校を卒業するまで住んでおりました。

富田里枝:これほどの歴史ある建物や数々の貴重な美術品に、生まれた時から囲まれていたというのは、どんな思い出があるのでしょうか。

西郷槙子:私たちが寝ている部屋に梅原龍三郎の「浅間山」や、岸田劉生の「麗子像」 が掛けられていましたが、当時は子どもでしたから特に意識したことはないです。生糸貿易が衰退した際にそれらはすべて処分してしまったので、今は美術館などに収められていますけれど。

富田里枝:うわぁ! すごいですねぇ。

西郷槙子:例えば展覧会などで「あ、これうちにあった」という絵などに再会すると、本当に一番いいと私たちが思える作品ばかりなんですね。三渓やその子供達がいかに鑑識眼があったかということを感じます。いいものを見て育った幸せは、還暦過ぎてわかってきたような気がします。

富田里枝:おばあちゃん子だったそうですね。

西郷槙子:はい。長男の長女だったので、とても可愛がられました。私が5つの時に祖母は亡くなったのですが、ごはんを食べるのでも何するのでも、いつも祖母といっしょだったのを覚えています。

富田里枝:何か子供心におばあ様の印象など残っていますか?

西郷槙子:わりとサバサバした人だったと思います。三渓は長男を亡くしてますから、「これが男だったら」と祖母のことを言っていたくらい、優秀な人だったようです。

富田里枝:三渓翁のことは、お父様などからよくお聞きになっていたのでしょうか?

西郷槙子:子どもの頃はそれほど興味がなかったというか…。三渓園は昭和28年に横浜市に寄贈したのですが、それよりも前に一般に公開していましたし、自分自身も学校の遠足で行ったりしましたけれど、この公園を曾おじいさんがつくったというくらいで。
31歳のときにこの店を継いでから、たいした人だったとあらためて認識をするようになった感じです。

富田里枝:お母様が自宅だった家を「隣花苑」として開業したのですよね。

西郷槙子:母がお嫁にきた時に、祖母にとてもよくしてもらった思いがあって、この家を守っていこうという気持ちが強かったようです。祖父が亡くなる前に、何か商売をしないと家を維持していくのは難しい時代になるだろうと言っていたので、母は決心したのだそうです。ですから母は本当に苦労したでしょうね。普通の主婦だったのですから。女性は今のように多くは働いていなかった頃ですし。

富田里枝:それほど、この家を守るという意志が強かったのですね。

西郷槙子:祖母の愛情に対するお礼だったのでしょう。曽祖父が祖母のために移築した家ですから、自分がお世話になった義母のために頑張っていこうという気持ちだったのではないでしょうか。

富田里枝:女将さんもその気持ちを受け継ぎたいと?

西郷槙子:もちろん格好良く言えばそうですが、私はこの家で育ってますし、やっぱり客観的に見ても守っていかなければと思います。今は祖母や母からもらったというよりも、私的ではない視点のほうが強いですね。

富田里枝:そうでしょうね。なおさら大変なことなのだと思います。女将さんは、隣花苑に戻る前はお勤めを?

西郷槙子:はい。外資系の化粧品会社の宣伝企画の仕事などをしておりました。

富田里枝:華やかなお仕事ですよね。なぜ店を継ぐ決心をされたのですか?

西郷槙子:祖母に付いていた人が台所を取り仕切っていたのですが、その方が高齢で働けなくなって、母は店を辞めようと考えていた時期があり、店を料理屋として買いたいという人が見に来ていたこともありました。

富田里枝:そうだったんですか。

西郷槙子:私自身、一生社会とかかわって生きてゆこうという気持ちがあったので、当時の仕事は歳をとってまでやれる仕事ではないし、自分が長くやっていける仕事は何かと考えたときに、隣花苑を継ぐという気持ちが固まったのです。

富田里枝:なるほど。小さい頃になりたかった職業とかありました?

西郷槙子:うーん、それほどなかったかしら。サービス業をやるとは夢にも思っていませんでしたけど。

富田里枝:そうですか!

西郷槙子:ええ。でも人が好きだから、この仕事をやってこれたのかなと思います。お客様には恵まれていて、ほんとに色々なことを教わりました。

富田里枝:そうおっしゃる女将さんご自身がすごいなと。

西郷槙子:いえ、それほどお客さまに教えていただくことが多いのです。接待をしていらっしゃる方たちの関り方ですとか。ここでおもてなしをしたいと思ってくださるのは幸せなことですよね。

富田里枝:先日、私たちもお食事をいただきましたが、ほんとにどこかのお宅に招かれているような気持ちでした。

西郷槙子:それはよかったわ。母は、自分のうちにお客さまを招いているようなおもてなしをすればいいのよと言ってました。三渓の長女である祖母が、三渓を慕ってくる人たちにしていたように。和辻哲郎や谷川徹三などの文人が多かったようですけど、その方たちをもてなしていたのを、お嫁に来た母が手伝っていた。いつ誰それをお招びして、どういう料理をどのお皿に出して、というような祖母の覚書があるんですが、それを元にお店を始めたわけなのです。

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富田里枝:料亭や割烹のように板前さんを雇うのではなく、代々伝わってきた家庭料理をお出しするというのは、隣花苑ならではの特徴ですね。

西郷槙子:調理場はおばさんばかりですよ、と言うとびっくりする方もいれば、この料理は女の人が作ってますねとおっしゃる方、両方いらっしゃいます。

富田里枝:私は家庭的だなと感じました。かといってお惣菜というのではなく、とても丁寧に手をかけて作られた、まさにおもてなし料理でした。

西郷槙子:板前さんの料理ってきれいだけど、食べられない飾りもあったりしますよね。それは母が望んだことではありません。

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富田里枝:そうして伝えてゆく心が料理で味わえるということに、とても感動しました。

西郷槙子:料理も居心地も、もてなす側の人間も、すべてがそうでなくちゃいけないんですけど、それを従業員に伝えるのは難しいですね。おもてなしって、マニュアルを作って教えるものではありませんし。お客さまそれぞれに合わせることが大事ですから。ファミリーレストランのように、誰に対しても同じではいけないわけです。

富田里枝:なるほど。

西郷槙子:やはりいっしょに働くしかないのです。若い人が2人いるのですが、2年前に母が亡くなった際、彼女たちが「私たちに女将さんのやっていることを今すべて教えてください」と言ってくれて、私が1週間休んだことがありました。そういう従業員が働いてくれているのは心強いです。このうちの温かさといったようなものも伝えていければとは思っています。

富田里枝:また、この建物やお庭を維持していくのにも苦労がおありと思います。先日、昔の畳を直す職人が少ないので、替えることができないとお話してくださいましたが。

西郷槙子:はい。縁のない畳というのを出来る職人がなかなかいなくて。なにかが壊れたときに、技術と材料がなくなってしまっているんです。

富田里枝:うちの和装履物の商売も、材料が入手しづらくなっているだけでなく、職人が使う道具も、作っているところがどんどんなくなっているので、実感としてわかります。

西郷槙子:ここの庭を手入れしてくれている植木屋さんも、跡継ぎがいないみたいですし。

富田里枝:ほんと困ったことですよね。お料理は女将さんが考案されているのでしょうか。

西郷槙子:はい。以前は母と相談しながら新しい料理を考えて、母の「いいんじゃない」というひと言が自信に繋がったんですけど、それがない不安というのは今もやはりありますね。

富田里枝:私の母も一昨年に亡くなったのですが、いろんな事を教えてもらう時間がなかったので、仕入れや鼻緒合わせなど「母に相談できたら」と思うことが私もよくあります。

西郷槙子:でも、季節に合わせてどのような料理をつくればよいかを考えることは、クリエイティブだし楽しい仕事ですよ。

富田里枝:先日のコースはお腹いっぱいになりましたし、寛げる空間や温かなサービスも含めて、とても満ち足りた気分になりました。

西郷槙子:お料理だけ満足するのだったら、お金を出せばレストランはたくさんあるし、たとえ安くても不味いものって今はそれほどないですよね。だからこそ難しい。フォアグラのような高い素材を使っても満足できないこともあります。特別な素材を使わなくても喜んでいただけるように、誰でも出来る料理を心を込めて丁寧に作るというのが「隣花苑」の料理の基本です。

富田里枝:たしかに披露宴に招待されて、高そうなお肉やロブスターが出てきても、印象に残らないことってよくあります。

西郷槙子:祖母は「おもてなしは十二分過ぎることはない」と母によく言っていたそうです。それはもちろん素材や品数ではなく、気持ちのことですよね。

富田里枝:それにしてもお母様はすごいですね。

西郷槙子:この店に懸けてたと思います。倒れる3日前まで店にいたんですよ。少し前から患ってはいたのですが、厨房で味見などしてたんです。最後の2日間だけ寝込んで、店が休みの日に倒れてそのまま…。

富田里枝:そうだったんですか。

西郷槙子:私のお友達が私の還暦祝いの席をもうけてくれると前々から計画していたのですけど、ちょうどその日に母が亡くなったんです。実はお友達は、母に頼んで私への手紙を書いてもらっていたの。

富田里枝:お母様が亡くなった日に、お母様からのお手紙を受け取ったのですか! すごい偶然ですねぇ。

西郷槙子:ええ。そこには私がよくやってると誉めてくれていて、「隣花苑」には三渓さんの心があるのだから、あなたは安心してやればいいよと書いてありました。

富田里枝:まぁ…。でもそのお手紙をいただけて、よかったですね。

西郷槙子:ほんとに友達には感謝してますけど。そんなことがなければ母から手紙をもらうなんてことはなかったでしょうし。母とは30年間、いっしょに働いたんです。

富田里枝:いっしょに隣花苑を守ってきたこと、お母様にとっても嬉しかったのでしょうね。もう大丈夫と思っていらしたのでしょう。今日はいいお話をありがとうございました。暖かくなったら是非また来させていただきたいと思います。

2008年2月 横浜本牧「隣花苑」にて

1月末のある寒い日の夕暮れ、夫と2人で「隣花苑」を訪れました。入り口からすぐの大きな囲炉裏の周りでは、大家族のお客さまが楽しそうにお食事していました。子供達も皆楽しそうで、大人も自分の家のように寛いで見えました。
その日いただいたのは、なますや雑煮など新年のお祝いの料理を含む献立でしたが、どれも旬の素材を使った上品な味付けで、舌もお腹も、心も満たされるものでした。
お料理が盛り付けられた器は「すべてではないけれど古いものも」あるとのこと。女将さんのおばあ様は「高価な器も使ってこそ価値があり、壊れてしまったらそれが寿命」とおっしゃっていたそうです。
後日、再びインタビューにうかがい、改めて女将さんにいろいろなお話をお聞きしました。女将さんは背筋がピンと伸びて「凛とした」という言葉がぴったりな、けれど物腰が柔らかで、笑顔がとてもすてきな方です。
伝統を「受け継ぎ、守り、伝える」ということがどんなに大変か、和装の仕事をしていると、そういう話は周りにたくさんあります。
「隣花苑」の場合は建物、しつらい、美術品、料理、さらにおもてなしの心と、すべてに渡るのですから、並大抵のことではないと思います。女将さんもお母様もどんなに必死だったことでしょう。
そのお陰で「隣花苑」は今も、日本の美を心から愛した三渓翁の精神を受け継ぎ、あたたかく迎えてくれます。

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