第45回 日本はきもの博物館 学芸員 市田 京子 さん
辻屋本店は今年、創業百周年を迎えます。そこで2012年初回のインタビューは特別編!
一度は行きたいと常々思っていた、広島県の「日本はきもの博物館」を、昨年の秋ようやく訪ねることができました。
5年程前、ある雑誌が下駄について特集を組んだ際、当店も取材していただいたのですが、巻頭に「はきもの博物館」が紹介されていました。
そこでは学芸員の市田京子さんが、日本人とはきものとの関わりをとても判り易く解説されていて、せっかくならば市田さんにもぜひお目にかかりたいと思って連絡したところ、快く案内を引き受けてくださったのです。
下駄屋.jp ウェブマスター 富田里枝
「はきもの博物館」は福山市松永町にあります。下駄工場だった敷地に、下駄産業100年を記念して作られたそうです。
キャッチフレ-ズは「田下駄から宇宙靴まで」。農作業の道具として使われた田下駄に始まり、本当に宇宙靴まで展示されていました!
日本のものだけではなく、北米先住民・インド・韓国・スイス・モロッコなど、世界各国のはきものも。また古代エジプトからアールヌーヴォー・アールデコまでの、当時の衣装とはきもののも紹介されています。
さらには有名スポーツ選手の靴も。野球界では、長島茂雄さん、王貞治さん、イチロー選手、サッカー界では三浦知良選手、ゴルフの丸山茂樹さん、マラソンの瀬古利彦さん、宗茂・猛兄弟、高橋尚子さんなど。
今回の和装人インタビューは、いつもとは少し趣を変えた特別編です。下駄の話を中心とした、市田さんの解説を紹介いたします。
日本はきもの博物館
1978年開館の日本で唯一のはきもの専門博物館。日本のはきもの約11,000足、世界のはきもの約2,000足を収蔵している。同じ敷地に、日本郷土玩具博物館も併設されていて、入館料は2館共通。大人1000円、大学・専門学校生800円など。開館時間は午前9時~午後5時。休館日は12/28~1/3
〒729-0104 広島県福山市松永町4丁目16-27 tel 084-934-6644
公式ホームページ http://www.footandtoy.jp/
<松永と下駄のかかわり>
松永は、安い雑木を使った下駄を大量生産することで、かつては日本の下駄の六割を作っていました。 その理由は、ここ松永が塩の産地だったということがあります。
北前船(きたまえぶね)で山陰や北陸へ塩を運ぶ帰りに、重し替わりに安い材木を載せたのです。その中にあったアブラギという材木が、桐によく似て木肌が白くて軽く、下駄に適する材料になりました。塩と下駄が連動していたわけです。
江戸時代までは、日本人の日常の履きものは、わらぞうりやわらじが主で、下駄は高価なものでした。
もっとも、労働の道具としての下駄はそれよりずっと前からありましたが、それは後ほどご説明します。
明治中期以降、全国的に雑木下駄が盛んにつくられるようになり、大量生産の安い下駄が出回るようになって、庶民も日常的に下駄を履けるようになりました。 明治11年(1878年)に桐下駄製造小売業を開業していた丸山茂助が、安価な下駄の生産にのりだしたのが、松永の下駄産業の始まりです。
下駄の材料のアブラギが不足してくると、センという材木を使うようになりますが、センは大木になるため製材が必要になります。当時、木挽き職人をたのむと、なかなか希望通りに仕事が進まないというので、まず製材から機械化を進めたのです。
明治39年頃には蒸気機関をアメリカから輸入して製材を機械化し、下駄そのものも機械化が進んでゆきます。
その後、昭和三十年代以降、急速に靴に取って代わられるまで、機械でつくる大量生産の下駄が、日本人の履きものの主役でした。
松永では現在、ほとんど下駄は作っていません。手作り職人さんの仕事は残っていきますけれど、大量生産の製品は小回りもきかないし、大量に売れなければ作り続けられなかったのです。 なぜコンピュータ化しなかったのか?など聞かれるのですが、そこまで下駄産業はもたなかったということです。
こちらの「足あと広場」は、岡本太郎さんの作品です。「履きものは、人と大地の接点である」とおっしゃったそうです。こちらが男性、そちらが女性の足です。 岡本さんは、ここで子供たちに遊んで欲しいと考えられたとのことで、「足あと広場」は足で踏める唯一の岡本作品なんです。
「日本はきもの博物館」は、二千年の歴史の中で、履きものと暮らしのかかわりを知っていただきたいというのが展示のコンセプトです。 四代目の丸山茂樹が、会社の百周年記念事業ということで、私財で博物館を作りました。建物は、下駄工場当時の事務所です。今は奥さまが館長をしています。
<日本人の仕事と履きもの>
(A) 鼻緒を指で挟むことにより、力が入って足元が安定し、その機能を活かした「仕事のための履きもの」に、日本の履きものの特徴があります。その代表例が「田下駄」です。
田んぼに草や枯れ枝を肥料にするために踏み込んだり、平らにならしたりする農具の一つとして生まれたものです。 手縄を持って、つま先のほうから持ち上げて、前に進みます。指でしっかり挟むことによって、足の力が使えるわけです。
(B)これは弥生時代の遺跡から出土したもので、円形の枠がついていたはずなんですが、穴の位置が偏っていますよね。
古代の下駄の特徴なのですが、指に力を入れて挟むというより、甲にとめるベルトのような使い方になりますね。古代日本の下駄はこのような形でした。
(C)平安時代中頃の遺跡から出土した下駄をみると、真ん中に前緒の穴が開くようになっています。 そもそも下駄とは、木や竹で作った台に鼻緒を付けた履きもの、ということになりますが、そのような履きものは、東南アジアから中近東、アフリカまで使われています。けれど、前緒の穴が真ん中に開いているはきものは、日本にしかないのです。
真ん中に開いているということは、左右の区別がないいうことです。 指に力を入れるには、親指と残り4本の指で挟むのがいいことは確かですが、じゃあ外国のように穴をその位置に開ければいいじゃないか、ということになりますよね。 でも、おそらく4本の指のほうの鼻緒が長くなると、バランスをとるのが難しくなって、力を入れると鼻緒が切れてしまうからではないかと思います。
(D)これは「ナンバ」といって、横長の板にあけた穴に縄紐を通して足に結び付け、深い田んぼで足が沈まないようにして用いられました。
「ナンバ歩き」というのは手と足が一緒に出る歩き方で、歌舞伎などに残っていますが、このナンバ下駄も同じように、田んぼで動くとき、手と足が一緒に出ていきます。 日本人はもともと、ナンバ歩きをしていたようで、明治の初め頃は絵図なんか見ても、そういう姿勢で動いています。
洋式の軍事訓練が入ってきた時に、今のような歩き方に強制的に変えられたと聞いています。 はきものが、さまざまな道具として発達するのは江戸時代です。田下駄は古い時代からありましたが、江戸時代にはいろんな工夫がされていきます。
(E)底に竹製の針のついた下駄は「ネヅラ下駄」です。
遠浅の海岸を歩いて、ヒラメやカレイを突き刺して獲るのです。
もっとも売り物にはならないから、自分のおかずを獲るためだったといいます。
(F)桶の形のこちらは「足桶」といいます。
桶は本来、水を入れるものですが、「足桶」は逆に水が入ってこないようにする目的があり、ゴム長の替わりなんです。野菜を洗うとか、和紙を作る楮(こうぞ)をさらすとか、水中での作業に用いたのです。
これは東京・大田区の海苔の養殖で使われたもので、海の中で浮かないように石がつけてあります。いわゆる浅草海苔ですね。大田区の郷土博物館に行くと、高さ2メートル近いものまでずらーっと並んでいて壮観です。
履いて歩くものではなく、履いて立つための下駄ですね。足桶も、桶を持ち上げるわけでなく、ぐっと踏みしめるために鼻緒が付いているのです。
ほかにも仕事に合わせて、いろんな下駄が考案されました。
(G)熱伝導率が低いことから、下駄は熱い場所での作業に活躍することもあります。 これは「コシキ沓(ぐつ)」といって、お酒を造るときにお米を蒸す作業をするのに使います。
(H)「床下駄(トコゲタ)」も熱よけに履かれました。底裏を彫り取って安定をよくした厚板の下駄で、中国地方の、たたらという和鉄の生産現場で使われました。
(I)おもしろい形のこれは「茶切り下駄」。とがらした樫の三枚歯でお茶の葉を踏んで細かく刻みます。これは奈良県のものですが、宇治のお茶屋さんに古いものが残っていたりします。
<遊びと芸能の履きもの>
遊びと芸能に使われる履きものも、面白いものがあります.文楽の人形遣いの「舞台下駄」は、消音と滑り止めのため、台底にわらじを付けてあります。
(J)「下駄スケート」です。
江戸時代までは下駄やぞうりの裏に竹をはっていたのですが、明治になってヨーロッパからスケート靴が入ってくると、鍛冶屋さんが下駄の底に薄い鉄板をつけて作ったんです。
諏訪湖で初めてスピードスケートの大会が行われたときも、優勝した人は下駄スケートを履いていたんですよ。 指も足首もかなり丈夫でないと、これで滑るのは難しいでしょうね。
<信仰・行事と履きもの>
信仰とか儀礼にかかわる履き物です。
平安時代の絵巻物に「ゲゲ」という尻尾の長い履きものが描かれていますが、今では神社の行事やお葬式用に残されています。京都や滋賀には古いものが残されています。 これは藁を半分に折って鼻緒をつけただけで、草履の原型ではないかと思います。
宮司さんが自分で作って、人目には触れさせず伝わってきたものなんです。今80歳くらいの京都の宮司さんから直接いただいたのです。
(K)これは形が海老ににていることで「えび」といわれて、神社のお正月神事に使われます。
わらぞうりは濡らした藁を打って柔らかくして作りますが、お葬式で使うのは一度履いたら終わりということで藁を打たないで作ります。
お葬式の行列の先頭が松明を持って履いたものです。長生きした故人には大きく作ったそうですが、履いて歩く格好が可笑しいから、みんなの笑いを誘うのです。
長生きしたのはそれだけでおめでたいことだから、賑やかに送ってあげるというわけです。ゆっくり行列が進むから、時間をかけて故人を送ってあげる、という意味もあるようです。
(L)奈良の東大寺・二月堂で行われるお水取りで練行僧が堂内で履く「サシカケ」です。表に畳がはってある板下駄なので、松明をもって走るときバタンバタンという音がします。
(M)「ヨバイゾウリ」は地元のものなんです。用途は名前のとおりなんですが…。暗い中でも間違えずに履けるように、鼻緒が太く作ってあるのです。
昭和の初め頃まであったと聞いています。
(N)「ニカイゾウリ(二階草履)」といって「二人が一緒になれる」ようにと、台が2枚重なった形に編んであって、好きな人に贈ったそうです。バレンタインのプレゼントみたいですね。
履きものは、豊作や平安を祈って、民間信仰で奉納されることもありました。
旅の安全を祈るとか、足の病気が治るようにとか、足で歩けなければ暮らしが成り立っていかなかった時代ですから、足にまつわる祈願が多かったのでしょう。
寺社に大きなわらじが奉納されている風習は、日本各地に残っていますが、元々は村境につるされていました。
この村にはこんな大男がいるんだぞということで悪霊を追い出す、また大男の悪霊にこれを履いてどこかへ行ってくれと追い払う、二通りの言い伝えがあります。
2011年11月23日「日本はきもの博物館」にて
市田さんの的確かつ丁寧で親切な説明で、下駄をはじめ多種多様な履物の知識に触れ、大変貴重な体験をさせていただきました。
私が印象に残ったのは、日本のはきものだけが、真ん中に鼻緒がついていること!
日本人の暮らしや風土、体格などに関係があるのでしょうか?
いずれにしても、歩き方など身体性へ少なからぬ影響は与えているはずです。 さらに体と心は密接は切り離せないのですから、鼻緒が真ん中についているはきものが、日本人の精神構造に関わっているとしたら・・・と考えるとおもしろいです。
ここでご紹介したはきものは、博物館のほんの一部で、実際はまだまだたくさんの展示物があります。ぜひ一度足を運んでみてください!
下駄屋.jp webmaster 富田 里枝
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